ちょっと前の話になりますが、とある沖縄在住のスピリチュアル系の方の講演会に行ってきました。
笑えるスピリチュアル ~ 知ってるトキはシっている ~ ←この方
話が「自由に生きる/自分の殻を破る」的なモノになり、
講演者の
「すごくやってみたいけど恥ずかしくてできない事は何?周りのみんなにバカにされてもいい、笑われてもいい、そういう前提だったら何がしたい?」
という質問に、会場の最前列にいた、講演者の大ファンと思われる女性が
「ディズニーランドで、ミッキーの帽子をかぶりたい!」
と言ったんです。
その発言に、会場中が、ややザワっとしました。
空気が明らかに
「そんなのフツーにやれるよね?」
な感じでした。
実際、数列後方にいた女性が
「えー!やればいいのに」
とハッキリと声にだして言いました。
その後、今度はその「やればいいのに」発言をした女性に講演者の方が「じゃ、君は?」と尋ねたら、彼女は、
「私は、日本ではない南の島で浴衣を着てみたいです......もじもじ」
と言ったんです。
それにも、会場がさきほど同様にザワめきました
「それも、、、別にできるよね?」みたいな感じです。
すかさず、先ほどのミッキー帽さんが後ろを振り向いて
「えー!やればいいのに」
と大声で言いました。
人それぞれ、他の人にとってはフツー なことなのに、「恥ずかしくて、私にはできない」と自分で勝手に決めてることがあるものなのだなー、
って思った。ということが一つと、もう一つは
講演者のことを好きなあまり、講演者を喜ばせたくて、その場を盛り上げたくて、あまり考えないで彼女たちは発言しちゃったんじゃないかな、って思ったんですよね。
言葉って思いが乗っかってると、その思いの分まで重みがでると私は思ってるんですよ。
真剣な話だけじゃなく、フツーのなんてことない会話でも。
思いの重み(駄洒落じゃないですよ)
それが感じられなかったんですよね。
二人の女性から。
これって、コミュニケーションあるある、だなー、と思ったわけです。
誰かと会話してると、話を盛り上げよう、とするあまり、そんなにそう思ってもないことをつい口走ってしまったり、しちゃったり、しませんか?
口にだしてから「あれ?私ナニ言ってんだろ?」と思うこと、私はたまにあるんですよね。
そういうときって、なんか気分が悪いというか、変にふわふわしてて、「違う感」でいっぱいです。
そんな苦い「違う感」でいっぱいの会話の後は、
私って会話の反射神経が鈍いなー...... と、反省することしきりです。
今回の講演で私が感じたように、そんなときは、会話の相手もきっと「違う感」を感じ取ってるんだろうな、と気づきました。
高校生の頃は思考と発話のタイムラグが限りなくゼロの超ハイスピードでテンポの良い会話の応酬ができてたと思うんだけどなぁ。。。年齢のせい?
では~ッ☆