先日、知人がプロの写真家に撮ってもらったポートレイトをfacebookにアップしていた。
手相観を生業としているその人は、普段はほんわかとした雰囲気で、個性的な人なのだけれど、その職業ゆえか自分が前に出ることはあまりせず、穏やかに世界を眺めてる、そんな感じの人だ。
しかし、そのポートレイトは違った。
他の人たちを飲み込みつくすかのような強烈な個性をはなっていた。
コメント欄は絶賛の嵐。
最初は「うんうんそうだよね」とコメントを読みながらうなづいていた私。
しかし、じょじょに、その手相見さんへの「褒め言葉」が、まんまコメントした当人(自分)への「賛辞」になっていることに、気づいた。
というか、
コメントした当人さん達が「自分にあって欲しい」と思ってるもの。
そして実際に、「自分が持っているもの」
それを、相手の中に見ているのだ。
「シャーマンみたい」
「優しくて、男前」
「深い内面が感じられる」
「しなやかで凛とした知性」
「聡明で美しい」
「柔らかな優しさと凛とした強さとしなやかさ」
コメント欄という一言の場だからこそ、厳選された形容詞が並ぶ。
「あぁ、あなたってなんて聡明なの」と言うとき、心の中には(私も聡明でありたい)
という強い思いがあるし、実際、その人は聡明なのだ。
自分の中にない言葉は、口からでてこない。
自分が人としての"美点"だと考えていること、その範囲をどんどん広げていきたい、とスマホを眺めながら思いました。
では、では