今日、実家からの帰り道の夕陽がきれいだったから、さっそくGM-1で撮ってみたけど、紫色の夕陽の色合いが全然写し取れなかった。無念。
夕陽を見ながらふと思ったこと
「正解はないのだ」
私の父親は8年前に死んでしまって、母は独り身になった。
仲の良い夫婦だな、と思ってはいたけど、父が死んでしまってから、母にとって「夫」としての彼の存在がいかに大きかったのか、いなくなってからほとほと気づかされた。
たぶん、母にとっても実際此の世からいなくなっちゃったその喪失感がとんでもなくデカくてビックリしたんじゃないかと思う。
なにせ葬式では立ち上がることもできなかったし、病院で死ぬまぎわ辺りから葬式までの間の記憶がいまも無い。
父が死んだあと、何度も何度も母は「もっとしてやれることがあったのに」と泣きながら、申し訳ないというようなことを、同じようなことをとめどもなく喋っていた。
そして、「私も早く死にたい」と言っては、私に叱られていた。
ボロボロにやつれ果てた母も一年経ち、二年経ち、三年が経つ頃には少しまともになってきて、父がいない寂しさはあれど、生きていることの楽しさを思い出したようだった。
その母がここ最近、見る見る老化している。
年齢的に順当な老いなのだろうが、「寂しさ」から老いが加速しているようにも感じる。
私の中の「良い子」が同居したほうがいい、同居すべきだ、と語りかけてくる。
この先、何年彼女が生きられるか分からないけれど、どうでもいい世間話をして笑いあえる時間はそう長くない。たぶん。
目が衰え、耳が衰え、記憶が衰え、思考が衰え、彼女にとって「難しい」ことがどんどん増えていく。
私の中の「正直な私」が反対する。それは単なる同情で愛情じゃない。自分を犠牲にしてると少しでも感じるならやめなさい。
私は人生で後悔してることがいくつかある。
その全てが「しなかった後悔」だ。
「やっちゃった」後悔は笑い話になる。痛みがおさまればネタとして話題にのせられる。でも「やらなかった」後悔はいつまでも小さな小さなトゲのように不快感を残す。いつもいつも痛いわけじゃないけど、ふとしたときに「あ、ここにある」とチクリとする。
あのとき、○△×していれば、、、、、
そうしたら、今頃、私は%$#で、、、、
あのとき、
もし、
でも、正解はないのだ。
世の中にゲーム中毒者はいっぱいいるけど、その展開が全て分かってるなら誰も寝ないでゲームなんてしない。
この敵を倒したら、次にどんな敵が出てくるのか?
この扉を開けたら、いったい何が待っているのか?
Aという選択肢を選んでも、Bという選択肢を選んでも、それは全て自分の選択。
Aという選択ができなくて、立ち止まったのも自分の選択。
自分というキャラクターが選んだ選択なのだ。
たぶん、Aの道でもBの道でも、その先のいくつかの選択をした後、道はいつか同じ一点に交わる。
正解はないのだ。
ただ、自分に正直に選ぶこと。
自分の直感的な感情にしたがって選ぶこと。
自分の正直な気持ちをいつでも、どこでも、誰にでも、伝えること。
みんなALLハッピーにいきたいよね。
では
タイムリーにこんな記事を読みました。